2016年4月29日金曜日

九十九里町手記(112)

「九十九里町に植物工場をつくりませんか?」プロジェクトや「九十九里町に自由大学をつくりませんか?」プロジェクトは、現代の経済の枠組みに合うものでないかも知れませんが、同じようなプロジェクトに、何時かは真剣に取り組まなければならない時代が来るのではないかと思います。
※ ここでは、「経済」を「理財」と言い換えた方が分かり易いかも知れません。
(理財とは、お金の流れ方を調べるという意味だそうです)

2011年3月11日の出来事をこちらのブログで紹介して以来、地域の人々の手により、そこで継続的に生活を営むための仕組みをつくる必要があるのではないかと考えてきました。既に多くの方々が、同じような考え方の上に立ち、地域創生のために具体的な活動を行っていらっしゃることと思います。

こちら九十九里町でも、そのような方々はいらっしゃると思いますが、私の力が及ばす、未だそのような方々とお話しをさせて頂く機会に恵まれていません。自由大学については、「教育」といった観点から私の心の奥に引っ掛かっていたことを、既に内田 樹さんが適切な表現で説明なさっています。

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教育というものは、まず需要があって、それに対して「はい、これがお求めのものです」と言って差し出して、引き換えに代価を受け取るというものではないと僕は思います。教育は商取引ではありません。最初は無償の贈与から始まる。教わりたいという人がいなくても、「私にはぜび教えたいことがある」という人が勝手に教え始める。聞きたい人がいれば、誰にでも教えますよという、教える側の強い踏み込みがあって教育は始まる。まず教える側の「教えたい」という踏み込みがある。それに対して、「教わりたい」という生徒の側の踏み込みがある。教える側の踏み込みと、教わる側の踏み込みが、両方成立したときに、初めて教育というものは成立するのではないか、と。
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この後内田さんは、教える側は境界線のこちら側にじっと待っていて、教わる側が自己の責任で、自己の判断で、境界線を越えて踏み込んで来なければならないと続けています。
自由大学に関する私の基本的な考え方も同じところにあり、「自由大学というものがあります、そこで自由に学ぶ楽しさを一緒につくりませんか?」と外に向かって発信することはできますが、後は受信者が境界線を越えて来るまで、じっと待つことが大切であることを、改めて認識することができました。

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高橋