2016年7月8日金曜日

九十九里町手記(113)

物心がつくようになったとき、既に社会というものが存在していましたし、どのようにしてそうした社会が形成されたのか、考えたことはありませんでした。

中学生の頃だったと思いますが、太宰治の「人間失格」を読んだときに、それまで「社会」や「国家」が擬人化されて語られることに、何等疑問をもっていなかったことに気付きました。
そして今、この件について2年程前に手にした本の内容から、次の一節を引用させて頂きたいと思います。
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「繰り返すが、全体の行動が部分の行動にたやすく結び付けられないからこそ、創発は困難な問題なのである。 ---- 中略 ----
例えば、ゲノムを一遺伝子のように働くものとして論じないし、脳を個々の神経細胞のように働くものとして論じないし、生態系を個々の生物のように行動するものとして論じない。
そんな風に論じるのはばかげている。
にもかかわらず、社会現象に関しては、われわれはたしかに家族、企業、市場、政党、人口階層、国民国家などの{社会アクター}が、それを構成する個人のように行動するものとして論じる」
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社会科学では、集団の行動を代弁させるための個人のことを「代表的個人」と呼ぶそうです。

上記のことを踏まえて、個人のミクロな選択から実社会のマクロな現象をどのように導き出せばよいのでしょうか? 言い換えれば、家族や企業や市場や文化や社会はどこから生じて、何故現在の特徴をもつようになったのでしょうか? このような問いかけは、一般に「ミクロ-マクロ問題」と呼ばれています。

ミクロ-マクロ問題に類似したものは科学のどの分野でも起きており、「創発」と呼ばれることが多いそうです。2011年3月以降、私が当ブログを通じて体験してみたいと考えたのは、まさにこの「創発」でした。

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高橋